犠牲は必要か?

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今日は自分の記事を真っ向否定してみようかと思います。

つまり、何かを犠牲にしてまで手に入れなければならないものなんて無い、ということ。

例えば、昨日の記事に出てきた漁師さんは全てを犠牲にしてきて良かった、と言ってます。

昨年、W杯で大活躍だったラグビー日本代表の選手もインタビューで「いろいろなことを犠牲にしてきた甲斐があった」と言っていました。

でも、本当に「犠牲」にしたのでしょうか?

犠牲には生贄、とか災害被害、とかの意味もありますが、上記のような場合は「ある目的のために損失となることをいとわず、大切なものをささげること。また、そのもの。」という意味で使っているかと思います。

自分の夢を叶えるために、自分の大切なものを捧げる、という意味で犠牲という言葉を使っているのですね。

私の周りでも起業してからの3年間は家族との時間、娯楽をする時間を犠牲にして仕事に没頭したからこその成功、みたいな表現をする方もいます。

でも、ですよ。

果たして、家族にとってそれは「犠牲」なんでしょうか?

自分の余暇にすることを我慢することが「犠牲」なのでしょうか?

 

もし、そのこと自体を「犠牲」だと思っているとしたら、それはきっと主体的に決めたことでは無い場合です。

そこまでしてやりたくなかったのに、やらされた、という時は犠牲なのかもしれません。

でも、自分が自分の夢や目的達成のために自分や家族に少しだけ制限をかける、というのは犠牲ではなく「我慢」です。

違う言い方をすると、辛抱です。

成功者は将来の目的達成のために目の前の欲望を我慢、辛抱することを厭いません。

休みたい、遊びたい、呑みたい、癒されたい、という欲望を超えるほどの自分の夢があるからできることです。

だから、もし、今の自分の夢がその目先の欲望を我慢できない程度のものならば大した夢じゃ無い、ということです。

漁師さんも代表選手も「犠牲」という言葉を使ってはいますが、言わんとすることは「たくさんの目先の楽しさを我慢したり、体力的・精神的な苦痛を辛抱した甲斐があった」ということだったと思うのです。

 

一番大切な「命」「家族」などを捧げなくてはならないほどのことはそうそうありません。

だから夢の実現のために犠牲を払うのではなく、辛抱ができるかどうかを自分に問うてください。

その辛抱が続くほどの強い想いならばきっとそれは実現するはずです。

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